【コラム】なんで下天神町が大名行列?

いつごろから、なぜ下天神町が大名行列をやるようになったか知っていますか。ちょっとひも解いてみましょう。
谷村町を治めていた秋元谷村藩主が川越に転封になった宝永元年(1704)に行列道具一式を下天神町に置きみやげとして贈ったと伝えられています。
下天神町の人たちの手で行列が行われるようになったのは、詳しくはわかっていませんが、おそらく享保年間(1716~1736)ごろであろうと考えられています。

大名行列というのは、徳川幕府が諸国の大名を統制するために、一定期間大名を江戸へ参府させ、火の番や火消し、警固にあたらせた制度で江戸と領国との行き来を、家柄や石高によった規模で行列したことをいいます。
都留の大名行列は、十万石の格式と称されていますが、その規模は馬上10騎、足軽80人、中間・人足が140人から150人、総勢230人から240人だといわれています。
下天神町の行列は、総勢99人で十万石には及びませんが、この小さな町で出せる精いっぱいの人数で編成したもので、小規模は承知で十万石の格式と称し続けてきたものでしょう。現在は112名での行列となっています。(平成10年現在)
また、仮装行列、花車、踊りなど趣向を凝らした「にわか」ものをだして、祭りの景気を競い合い、八朔祭りを盛り上げたことも伝えられています。

(広報つる 平成10年10月号より)